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スーパーラグビーの始まり。

コラム2/16(火) 17:00
 日本のチームがスーパーラグビーに参加する。そんな夢のようなストーリーを実現させたのがサンウルブズである。昨年のW杯では日本代表が大活躍して、今年2016年に始まる日本チームのチャレンジは最高のタイミングでスタートを切れる。日本で関心が高まっているスーパーラグビーとはどのような世界なのか、その歴史を知って欲しい。

 昨年のW杯で証明されたように、いま世界のラグビーをリードしているのは、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカの(南ア)の南半球の3強国である。そして、これらの国の代表選手たちは、全員が世界最高峰といわれるタフで厳しくスピーディーなスーパーラグビーの試合に出て、鍛えられ、力を伸ばして、実力を認められた者ばかりなのだ。それでは、スーパーラグビーの始まりから話を進めていこう。

 1996年の3月1日、「スーパー12」と呼ばれる新しい選手権が開幕した。参加したのはニュージーランドから5つ、南アから4つ、オーストラリアから3つの、大まかにいうなら各国の州代表を母体とした計12のプロチームである。総当たり戦11試合の結果勝ち点の上位4チームがプレーオフへ進んで勝ち抜きトーナメントで優勝を決める方式がとられ、チームごとに5試合または6試合をホーム&アウェーで試合し、3カ国を行き交うスケールの大きな選手権である。

 この選手権を統括するための母体として新しく組織されたのが「SANZAR(サンザー)」である。SANZARは「スーパー12」と、その兄弟というべき「トライネーションズ(3カ国対抗選手権、現在はアルゼンチンを加えた4カ国のザ・チャンピオンシップに移行)の2つの選手権を運営してゆくことになる。この横文字は、南ア、ニュージーランド、オーストラリアそしてラグビーの英語の頭文字が並べられている(現在はアルゼンチンを加えて「SANZAAR」の表記となった)。

 さかのぼって前年の1995年6月の、W杯南ア大会期間中のことになるが、翌年から南ア、ニュージーランド、オーストラリアの3カ国が参加して「スーパー12」と「トライネーションズ」のふたつの選手権を開催するという告知がされ、そこにはメディアの王ルパート・マードック氏所有のニューズ社が、テレビの独占放送権として、10年間に総額5億5500万米ドルを3カ国協会に支払うことが明記されていた。

 この用意周到なプロラグビー宣言を突きつけられて、IRBはアマチュアリズムの維持はもはや困難と判断したのだろう、2か月後の8月の末、IRB(現ワールド・ラグビー)はラグビーのプロ化を認める決定を下したのだった。余談だが、プロ容認の決定から4日後、欧州のIRB理事たちが集まり、欧州(ハイネケン)カップ創設のプランがまとめられ、その年のうちにスタートが切られている。つまり、欧州カップがラグビーの世界最初のプロ選手権であり、スーパー12は2番手というのが正しいわけだ。

 次は、今日までのスーパーラグビーの20年を振り返って、印象に残る出来ごとを書きつらねてみたい。はじめに、オーストラリアのスーパークラブ3チームのうち、唯一の新設されたチーム「ブランビーズ」の来日についてである。1996年2月、翌月から始まるスーパー12の準備のための試合のために、ブランビーズが来日し、日本代表との1試合を含む4試合に全勝している。

 ブランビーズはロッド・マックィーン監督が率いて1年目は5位、2年目には総当たり戦2位からプレーオフに進み準優勝している。新チームをすぐに成功に導いた手腕を買われてマックィーン氏は、'97年7月に、国代表ワラビーズの監督に就任し、その後の99年W杯に優勝するなど、数々の好成績を残している。

 新たにブランビーズの監督のポストに就いたのは、昨年まで日本代表を指揮したエディー・ジョーンズ氏だった。そのニュースを報じた現地の新聞には、「エディーWHO?」の見出しが付いていた。日本国内では日本代表の技術顧問として知られた存在だったが、当時本国ではまだ無名のコーチだったというわけだ。

 98年2月、エディー・ブランビーズがシーズンインの準備のため3試合の合宿に来日し、「野生の馬」を意味するチームは、このとき日本選抜に1敗を喫している。エディーさんは、「スクラムではダイレクトチャンネルでNO8にボールを運び、サイドアタックさせたい。日本人が得意なこのプレーは、向こうでは誰も使っていないのできっと上手くいく」と話していた。
このあたり、先のワールドカップで、それまでの日本代表では見せたことのなかったラインアウトオプションなどを披露し、ブライトンで奇跡を起こしたエディーらしいエピソードである。

 スーパーラグビーは、06年~10年に14チームによる「スーパー14」となり、11年~15年に15チームによる「スーパーラグビー」となって、今年16年から20年まで呼び名は変わらずに、サンウルブズ、ジャガーズ(アルゼンチン)、キングズ(南ア)が増えて18チームとなった。チーム数増加の境目ごとに、テレビ放送権料の支払い契約は更新され、パイは大きくなり続けている。

 初期のスーパー12で印象深いのは、ニュージーランドのオークランドを本拠とするブルーズである。グレアム・ヘンリー監督(後の11年W杯の優勝監督)がチームを率いた96年からの3シーズンに、いきなり2連覇し、3年目は準優勝の成績だ。3年間で39戦32勝6敗1分け、勝率82%は驚異的。当時のブルーズには、FWにクレイグ・ダウド、ショーン・フィッツパトリック、オロ・ブラウン、ロビン・ブルックアンドリュー・ブロワーズ、マイケル・ジョーンズ、ジンザン・ブルックらが、BKにもカーロス・スペンサー、エロニ・クラーク、ジョエル・ヴィンディリ、ジョナ・ロムーらオールブラックスのスターが勢ぞろいしていた。

 スーパー12が3年目を迎えた98年は、日本に「J SPORTS」が開局し、テレビでスーパーラグビーの試合が観られるようになった年である。そして、この年の決勝でブルーズを敗って初優勝したクルセイダーズはここから一時代を築いていった。この初優勝チームのHOはサンウルブズのマーク・ハメット、ヘッドコーチだった。

 クルセイダーズは優勝7回、ウェイン・スミス監督が2回、後任のロビー・ディーンズ監督(現パナソニック監督)が優勝5回、さらに準優勝2回と凄い。ジャスティン・マーシャルとアンドリュー・マーテンズのハーフ団を中心に、堅い守りから切り返すカウンターアタックと、相手の反則をPGでとがめるスタイルは、現在のパナソニックと共通するところも多い。06年のハリケーンズとの決勝戦は、旧称ランカスターパークが濃霧に包まれて、視界が奪われたなかでの優勝だった。それにしてもあの霧は凄かった。なにしろTV中継をしていても真っ白で何をしているのか分からない程だった。

 無敵のロビー・クルセイダーズに肉薄したのが、グレーガン、ラーカム、ロフらを擁したエディー・ブランビーズだった。2000年準優勝、01年初優勝、そして02年に準優勝のあと、エディー・ジョーンズはワラビーズ監督へと転じた。

 ブルーズがピーター・スローン監督でもう1回、ブランビーズがヌシフォラ監督でもう1回優勝しており、スーパー12時代の10年間の優勝は3チームが独占している。

 そして、ブルズによってようやく南ア・チームの優勝が実現した。マットフィールドとバッキース・ボタのツインタワーを擁して、07年にハイネケ・メイヤー監督が初優勝し、続いて、09年と10年にはフランス・ルディケ監督のブルズが2連覇している。

 その後、スーパーラグビーで連覇できたのは12年と13年に優勝したニュージーランドのチーフスのみである。オーストラリアのレッズは11年、ワラターズが14年、田中史朗が加わったニュージーランドのハイランダーズが15年に初優勝を成し遂げた。

 最後になるが、スーパーラグビーのレベルは、年々上がっている。それでも最近は、選手の欧州クラブへの移籍が増えていて、どのチームもコンビネーション作りには時間がかかる傾向にある。これはスーパーラグビー初参加のサンウルブズだけのハンディではない。一日も早く、スーパーラグビーの移動と試合のリズムをみつけて、なんでも楽しめるタフネスさを身につけてくれることを願いたい。
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